ジョン・スカリーは、「世界を変えるチャンス」を手にしたのだろうか。

今ではその名を知らない人のいない「Apple」だが、かつてその運命を左右した「ジョン・スカリー」の名を知らない人も増えてきているのではなかろうか。
彼、「ジョン・スカリー(John Sculley)」は1939年4月6日生まれで、1970年から1983年までペプシーコーラ社の社長を務めていた。当時、「ペプシチャレンジ」と呼ばれる画期的な広告キャンペーンを駆使して大幅な売上増加を実現し、敏腕CEOとして注目を集めていた。

そんな彼の人生が劇的に変わったのは、1983年、Appleの創業者で当時まだ28歳の若者「スティーブ・ジョブズ」と出会ったときだった。
Apple IIの成功によって急成長を遂げていたAppleだったが、スティーブ・ジョブズ自身は会社を次のステージに導くためのCEOの適任者ではないと考え、自分に代わって指揮を執る人物を探していた。ジョン・スカリーはその候補として最有力視されていたが、彼はペプシコーラでの成功に満足し、当初はAppleの誘いに興味を示さない素振りを見せていた。(ただ、彼は実際にはかなり興味があったと後に語った。)

しかし、その態度を覆すきっかけとなったのが、ジョブズが放った有名な一言だった。

「Do you want to spend the rest of your life selling sugared water, or do you want a chance to change the world?
(残りの人生を砂糖水を売ることに費やしたいですか、それとも世界を変えるチャンスを手にしますか?

その言葉は、ジョン・スカリーにとって衝撃的だった。一見冷静を装っていたスカリーだが、その言葉を聞いた瞬間、心の奥底で何かが大きく揺れ動いた。「自分のキャリアを終わらせるのか、それとも新しい挑戦に踏み出すのか」。スカリーは迷いを振り払い、その場でAppleのCEOの座を受け入れる決断を下した。

スカリーがCEOに就任した当初は、ジョブズと二人三脚でAppleを成長させる計画が進んでいた。しかし、次第に両者のビジョンの違いが浮き彫りになっていった。この対立は社内の分裂(最も有名な事件は、Apple LisaとMacintoshチームの対立だろう。)を招き、1985年にはスカリー主導の役員会によって、ジョブズは自身が創業したAppleを去らざるを得なくなった。この事件は、IT業界でも語り草となるほどの衝撃を与えた。

スカリーはジョブズが去った後、Appleの未来を切り開くべく「Apple Newton」の開発を進めた。Newtonは、世界初のPDA(パーソナルデジタルアシスタント)を目指した製品で、手書き文字認識やタッチスクリーンを搭載するなど、時代を先取りした技術を数多く盛り込んでいた。しかし、過剰な開発コストや技術的な未完成さから、商業的には失敗に終わった。

スカリーの退任後、Appleは経営難に陥り、何度もCEOが交代する混乱を経ることとなる。そして、当時Mac OSに代わる新しいOSを模索していたAppleが、スティーブ・ジョブズのNeXTが開発する「NeXTSTEP」とBeOSのどちらを採用するか悩んだ末、NeXTを買収したことで、1997年にジョブズがAppleに復帰することとなる。当時、Appleの資金状況は危機的で、残された運転資金はわずか60日分だった。ジョブズはAppleを立て直すために、大幅なリストラを断行し、多くのプロジェクトやチームを解体する決断を下した。

(蛇足だが、当時AppleのCEOだったギル・アメリオはBeOSを買収するために必要な金額2億ドル以上と高すぎて、破産寸前だったAppleとしては受け入れられないと主張し、結果として4億2900万ドルでNeXTを買収した。(????)ちなみに、当時Appleが新しいOSの買収にかける予定だった予算の最大額は約2億5000万ドルから3億ドルだったとされる。スティーブ・ジョブズの「現実歪曲空間」に見事惑わされたギル・アメリオは、その後Appleの業績悪化の責任を問われ、1997年に退任した。)

結果として、かず多くの派生製品を抱えて混乱していたMacintoshのラインナップは、ジョブズの指揮のもと4つの簡潔なラインナップにまとめられた。そして2001年には、「iPod」を発売し、Appleは完全に復活を遂げることとなった。

ここまでを見ると、ジョン・スカリーは、成功を収めたペプシのCEOから、知識の少ないIT業界に転職し、大失敗をした人物のように見えるかもしれない。そして、多くの人々もそう評価している。しかし、それは本当に正しいのだろうか?

1980年代、Apple Newtonに搭載するCPUを探していたAppleは、英国のAcorn社とともに、とある低電力プロセッサの開発に取り組んだ。Newtonはポータブルデバイスとして、低電力で動作するプロセッサが不可欠だったが、当時開発されたこのプロセッサの性能は限られており、「コンピュータ」として本格的に活用できるレベルには達していなかった。そのため、このプロセッサは市場で注目されることもなく、長らく埋もれた存在であった。

しかし、2000年代に入り、再び脚光を浴びることとなる。その名前は、「ARM」だ。


1997年、ジョブズがAppleに復帰した際、多くのプロジェクトやチームが解体される中で、Newtonの開発チームだけは存続を許されていた。ジョブズはこのチームに、新たな製品の開発を密かに指示する。その製品はやがて小型化され、電話機能を搭載し、後に「iPhone」として発表されることになる。

iPhoneの登場は、Appleにとっても世界にとっても転機となった。スマートフォンというカテゴリーを普及させただけでなく、日常生活を根底から変えるほどの影響を与えたのだ。

2020年には、ARMプロセッサの影響力はさらに拡大している。スマートフォンの登場により、コンピュータは「家に1台置くもの」から「誰もがいつでも携帯するもの」へと変化した。バッテリー容量が限られる中、ポケットサイズのコンピュータに必要な性能は向上し続けている。低電力で動作するARMプロセッサが注目を集めるのは必然だった。

その結果、日本のスーパーコンピュータ「富岳(Fugaku)」も、ARMプロセッサをベースに開発されるに至った。富岳は並列構造と低電力性能を武器に、2020年には世界1位のスーパーコンピュータとなった。かつてx86やPowerPCなどのCISCプロセッサに勝てる見込みのなかったARMは、今ではAppleのコンピュータやスマートフォン、さらにはスーパーコンピュータに至るまで幅広く活用される技術となっている。

さて、ここで再び1983年にジョン・スカリーがジョブズに言われた言葉を思い返してみよう。

ジョン・スカリーが提唱した「個人用携帯情報端末 Newton」(Knowledge Navigator)は、「PDA」という言葉を生み出し、Newtonそのものは失敗に終わったものの、そのアイデアは確実に未来へと繋がった。
低電力プロセッサ「ARM」は、現在ではx86に代わる新世代のプロセッサとして世界中に普及し、スマートフォンやスーパーコンピュータに至るまで幅広く活用されている。

ジョン・スカリーが企画したNewtonの開発チームは、iPhoneとiPadという革新的な製品を生み出し、かつてコンピューティング性能不足で実現できなかった「本当の意味での個人用携帯情報端末」の普及に成功した。


「事業には失敗した」と語られるジョン・スカリーだが、スティーブ・ジョブズに言われていた通り、彼は「世界を変えるチャンス」を掴んでいた。もしNewtonの発想がなければ、iPhoneの誕生は数年、あるいは十数年遅れたかもしれない。さらに、ARMの普及も遅れ、人類の技術史に大きな遅延をもたらした可能性がある。

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